2013年11月18日月曜日

戦争の記憶...学校では ②

女学校2年になると普通授業はだんだん少なくなりり、農家の手伝い、茶業試験場の茶摘み、など農作業が多くなった。

2013年11月10日日曜日

戦争の記憶・・・学校では、①

2013年11月10日(日)  国民学校初等科の五、六年では、体操の時間に「薙刀(ナギナタ)」が取り入れられた。校舎の屋上で、藁で作られた人形に向って「お突きー!」という掛け声とともにナギナタを手に突っ込んで行く。  男子は「剣道」だったがクラスが違うので授業の内容はわからない。  1943年、女学校一年では一通りの授業はあったが、やはり体操の時間には「ナギナタ」があった。2年生から「英語」が廃止になり、体操の時間には農作業が行なわれた。運動場も少しずつ畑に変わり、「肋木(ロクボク)」を倒して四角の枠を作り、其の中に落ち葉や草を入れ、其の上から「下肥(シモゴエ)」や土をかけて堆肥を作った。  戦時徴兵で男手の少なくなった農家の手伝い、「大津」まで鍬を持ち、担架を持って、「唐芋」を掘りに行く。地下足袋を履いて歩いて行くのだ。帰りには、リュックと担架に収穫した「唐芋」を入れて学校に持って帰る。途中、「八景水谷」で休憩し、足を水に浸して疲れを癒した。

2013年11月4日月曜日

戦争の記憶

2013年11月4日(月)  1943年、学徒戦時動員が決定された。(私は女学校2年生)当時、東大の文科に在籍していた従兄は第一次の動員で熊本の「第六師団」に配属された。それから半年位経っただろうか、移動することになり、「行く先は言えないが上熊本駅を〇日〇時に通るのでホームに出ていて欲しい」との連絡があり、私の家族はホームで待っていた。数分間の停車時間だったが、Kちゃんは「さよなら。さよなら」と一人一人としっかり握手を交わした。私は其の時、突き指のため右手の小指が曲がっていたが、Kちゃんの力一杯の握手で飛び上がるほどいたい思いをしたが、後で見るとなんと小指が伸びていた。  のちに、彼は佐世保から輸送船で台湾に向う途中、米軍機に撃沈されて亡くなったことがわかった。右手の小指はKちゃんの形見になった。

2013年10月31日木曜日

やっと問題解決

2013年10月31日(水)  1ヶ月程悩み続けたPCの問題。昨日ベスト電器に相談に行き、ODNに電話する様にとのアドバイスを受けた。 今日、早速電話をしたら丁寧に教えていただいて解決。気持ちよくブログに挑戦している。教えて下さった皆さんに感謝!

2013年10月29日火曜日

出来事

2013年10月29日 (火) 労災病院へ診察に。1年7ヶ月ぶりにお会いしたO 先生はいつものように優しく接して下さった。病院はすっかり新しくなって迷いそうだった。 午後、O田さん、Y村さん、I塚さんと左右田さんのお見舞いに。お元気そうで安心した。 帰りに書道の先生宅に寄って八代市の文化祭に出品した色紙を受け取った。 PCでブログを更新しようとしたが上手くいかない。仕方なくスマホを使う事にした。何とかいけそうだ。暫くスマホにお世話になろう。 ブログが上手くいったと思ったら、今度は車がエンスト、なんということか・・・

2013年9月29日日曜日

漢詩を読む 前期最終回

2013年9月29日(日)
 ”漢詩を読む” の勉強を4月から続けてきたが、昨夜、最終回を終わった。 半年間とうとう効率的な勉強法を見出すことは出来なかったが、漢詩の醍醐味は少しわかったように思える。
 作家のことを調べたことによって、他の本やTVでその名前が出た時など親近感を持ったり、かつて中国を旅した時の地名があったりすると、そのときの情景を思い浮かべ、思い出に耽ることがある。今後も漢詩を身近に感じることが出来ると思う。 無駄ではなかった。
 後期はまた違った分野に挑戦してみよう。

2013年9月27日金曜日

戦争の記憶

2013年9月27日(金)
 前回書いた 真珠湾攻撃 の歌を口ずさんでいたら歌詞を思い出した。歌の題名はよくわからないが、歌詞は間違いないと思う。

    ①  緑輝くオアフ島  椰子の葉陰の波静か
        アジアに向う基地なりと 敵が誇りし真珠湾

    ②  師走8日の朝まだき  雲をつんざく爆音に
        夢破られし敵兵が  見しは日の丸日本機

    ③  更に止めの一撃と  命捧げし九柱の
        ああ忠魂の桜花  勲かんばし真珠湾

 以上のようなかしだった。忘れないうちに書き留めておく。

2013年9月26日木曜日

戦争の記憶

2013年9月26日(木)
 1941年12月8日未明、真珠湾の奇襲によって”太平洋戦争”が始まった。私は初等科5年生だった。
 真珠湾攻撃で思い出すのは、当時歌われていた歌の歌詞の一部だ。全部は憶えていないが、 「命ささげし九柱の ああ忠魂の桜花」 という部分だ。今思えば、9人の神風特攻隊がアメリカの艦船に突入した様子がリアルに歌詞に残されている。
 命を賭した若者は、どんな心境だったのか? 胸が痛む。

 其の後、国民の生活はますます窮屈になり、お風呂を沸かす燃料も手に入り難く、裏の親戚の家と1日おきに沸かすようになった。つまり毎日交代でお風呂を沸かし、二家族で利用していた。

 ある夜、裏の家で入浴し、自宅に帰る途中、「警戒警報」 発令され、ラジオから ”日本の東方海上に敵の爆撃機が確認された” というものだった。私は膝がガクガク震えていた。

2013年9月25日水曜日

戦争の記憶

2013年9月25日(水)
 学徒動員=1938年から文部省は中等学校以上の学校に対して集団的勤労作業の実施を指令、41年には学校報国隊を組織して勤労動員が行なわれた。
 1943年には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、以後本格的に学徒動員が実施された。44年にはさらに強化され、原則として「通年動員」の態勢となった。
 同年8月には「学徒勤労令」が公布された。45年の春には国民学校初等科以外の授業は原則として停止。全学徒は決戦体制に総動員された。(ブリタニカ)

 43年には女学校の4,5年生は動員で毎日軍需工場に働きに行き、私たち1~3年生は、徴兵により男手が少なくなった農家の手伝いに行ったり、学校農園の作業、幼年学校の生徒が立田山の開墾で伐採した樹の根を掘り起こしたりした。後半は「警戒警報」の度に山の中に逃げながらの作業だった。

2013年9月23日月曜日

秋? その他

ここ何日か朝夕は少し涼しくなってきたが日中はまだまだ暑い。温度差の大きさに老体はなかなかついていけない。
 昨日は、気力を出して、常備菜つくりを始めたがすぐ疲れてしまう。毎日の予定が消化できず、次から次へと先延ばしになっている。
 今日から八代市の文化祭の書道の展示が始まったが、今年も他の方々にお願いしてしまった。申し訳ない。

 戦争の記憶も書くはずだったが、後日に回すことにした。

2013年9月17日火曜日

食事&脳トレ

2013年9月17日(火)
 何時もの4人が顔をあわせた。食事の後は脳トレ。”川島隆太の脳トレ道場” は易しいようで難しい。問題のヒントをチョット見落とせば解けないようになっている。3人はその罠にひっかかってしまったが、稲〇さんはちゃんと読み取っていた。うっかりミスをしないように 用心! 用心!
 漢字の勉強は全員満点。次は漢詩の勉強を後期も続けるかどうか。Yさんは続けるとの事。私は他の講座にしようかと迷っている。他の2人も決められない様子。結論は来月に持ち越すことになった。

2013年9月14日土曜日

戦争の記憶


2013年9月14日(土)
 小学2年3年と進むにしたがって次第に日常生活は不自由になって行った。 そして小学5年の4月からそれまでの小学校から国民学校へと名前が変わることになった。私たちは国民学校初等科5年在学ということになる。
 その年の12月、つまり1941年12月8日朝、師範学校の講堂に集められ、開戦を知らされた。
 12月8日未明、日本海軍がハワイ真珠湾軍港を奇襲攻撃、これによって太平洋戦争が始まった。
 私はまだその事態を十分理解することは出来なかった。

2013年9月11日水曜日

旬のもの

2013年9月10日(火)
 久し振りに隣町の産直市場に行った。新ショウガを求め、レジに行くとレジの女性が ”あら、お元気でしたね。良かった! 随分久し振りでしたね。”と声をかけられた。たまにしか行かないのに憶えていて下さったのだ。嬉しかった。また一つ優しさを頂いた。
 帰宅後、生姜を丁寧に洗い、煮物用、冬のドリンク用に切り分け、冷凍することにした。半分ほど処理したところで手が痛くなったので残りは明日にまわすことにした。例年の事だが先ずは一つ片付きそうでホッとした。

2013年9月9日月曜日

83歳の誕生日&戦争の記憶

 今日は83歳の誕生日。例年通り、長女の小学校時代のピアノの先生、河〇さんから「おめでとう」の電話をいただいた。また、Sさんからも例年通りお赤飯を頂いた。感謝!感謝!

 日中戦争が始まってから次第に日用品などが品不足になり、武器や弾薬にするため、鉄製品や貴金属などを供出しなければならなくなった。
 戦争の正当性を刷り込まれていたため、"お国の為” と皆率先して供出したものだ。

2013年9月8日日曜日

オリンピック東京開催決定&戦争の記憶

今朝オリンピックの東京開催が決定した。56年ぶりと在って大変な盛り上がりだった。だが、一方、被災地の仮設の人々は、「オリンピックの大騒ぎは同じ国でありながら私たちの住んでいる処とは違う国の事のように感じられる」と話して居られた。
被災地を一番に考えるべきではないだろうか。オリンピックのもたらす効果はまだまだ先の事。被災者の生活は一刻も猶予できないのではないか。

 戦争の記憶。1937年7月7日夜、(私は小学1年生だった)、中国、北京南西の盧溝橋付近で、演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃をされた事を契機に、日本軍と翼察政権(政務委員会)第29軍衝突に発展した。(日中戦争の発端となった。)
 最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。当初、不拡大方針を声明していたにもかかわらず、内閣は内地3個師団の動員を決定、軍部内でも拡大派と不拡大派が対立するなど矛盾をはらみつつ戦線は拡大し、7月28日、北京、天津の総攻撃をもって全面戦争に突入した。
 中国側ではこれを契機に抗日の機運が高まった。
 其の後、召集令状(赤紙)を受け取る人が多くなり、婦人会は白いエプロンに ”大日本国防婦人会” と書かれた襷を斜めにかけ、私たちも皆、日の丸の小旗を持って出征兵士を見送る日々が続いた。

2013年9月7日土曜日

人生の最終ステージ&戦争の記録

2013年9月17日(土)
 岡〇文〇さんが私の誕生祝を届けて下さった。 病後にもかかわらず例年通り祝っていただいて恐縮。何時もならお食事会をするのだが、病院からの食事規制が厳しいらしく、食事会は出来ないとのこと。早く何時もの元気を取り戻して欲しい。


2013年9月16日(金)
 今日は市民病院の通院日。待ち時間にTさんから声をかけられた。前々回の通院日にお話したことが子供さんのお役に立ったとのこと。私の経験談がお役に立って嬉しい。
 人生の最終ステージを生きている私にとって、少しでも誰かのお役に立てることがある。こんな素晴らしいことある。通しえられた。長い人生で人々に支えられたこと、教えられたことは数え切れない。残された時間を少しでもお返しが出来るような日々に出来る様努力しよう。

2013年9月3日火曜日

私の人生の中での戦争の始まり

2013年9月3日(水)
 私の誕生日は1930年9月9日。 翌1931年9月18日、奉天(今の瀋陽)の北方 柳条湖の鉄道爆破事件から日本の中国東北侵略戦争が始まった。 私はまだ1歳。当時の事は知る由もない。
 今から20年近く前、中国旅行で柳条湖事件の現場を訪れる機会があった。そこには資料館があり、当時の生々しい写真が多数展示してあった。

2013年9月1日日曜日

沖縄で見たもの

2013年9月1日(日)
 1978年1月、「日〇〇全国大会」 が沖縄で開催された。私はPTAの熊本県代表として参加した。大会終了後、八代市郡の参加者は1日だけ残って沖縄を見学することになった。
 翌日、南部の戦跡を廻ることになり、「ひめゆり隊」 の壕や、住民が避難していた 「ガマ」 など、数ヶ所を廻った後、「摩文仁の丘」 へ・・・
 そこには、各都道府県の慰霊碑が建てられ、戦没者の氏名が刻まれていた。まだ氏名を刻むスペースが沢山残されていて、これから刻まれる方々が多いことが推測された。
 丘の最南端には 「健児の塔」 が有り、海を見下ろしている。その断崖を少し降りると、第32軍司令部の終焉の地となった横穴壕の前に出る。中に入って見ようと思ったが、「中の側壁には兵士の血や肉片がまだ残っている」というガイドさんの言葉に思わず身を引いてしまい、中に入ることは出来なかった。
 今は、「平和祈念公園」 に「平和の礎」が出来て、当時とは比べものにならないほど多くの方々が刻名されているが、当時はまだ淋しいものだった。
 私たちが宿泊した前夜も”ホテルの下の道路で少女が暴行を受け殺された”との話を聞き、ホテルの近くの ”嘉手納基地” には、夜になると地下道を通って弾薬その他が運び込まれているとのことだった。
 私たちが行ったのは沖縄が返還されて間もない頃だった。集会の帰り途、通りがかりの家の子供たちが 「日本の先生、さようなら」 と言っていたのを聞き、凄いショックを受けたことは忘れられない。
 ホテルの朝食の時も、米軍機の轟音のため、前の席の人の話が聞こえず
現地の方の苦しみがホンの少しだがわかるような気がした。

2013年8月26日月曜日

久し振りの雨、熊本総合病院受診

2013年8月26日(月)
 昨夜から久し振りの雨。雷鳴もとどろき、大荒れだった。今日は総合病院の受診日。小止みになることを祈ったがやはり大雨でがっかり。
 数日前の二の腕の痺れが気になり受診した。レントゲンの結果は異常なし。9年前の”撓骨神経麻痺”の症状でペインクリニックで治療を続けるようにとの事だった。新たな症状ではなかったので先ずは一安心。
 帰りにはお天気も回復、明日はお洗濯をしなければ・・・。

2013年8月25日日曜日

最近思うこと

2013年8月24日 (土)
 Eテレで、内村鑑三のことば が放映されていた。関東大震災の後に書かれたものだが、「天災はたしかに天罰であるが、悪人が天災を蒙ればそれはまさに天罰であり、義人が天災を蒙れば、それは試練である。」 という言葉が心に残った。
 私が今まで経験した苦労・悩みも確かに試練であり、それによっていろいろな事をたくさん勉強することが出来たと思う。これまでの経験に感謝しなければ・・・。


2013年8月23日(金)
 市民病院の待ち時間に患者さんのTさんとお話することが出来た。Tさんの子供さんが6年生で、今度広島に行かれるので、戦争の事を調べたいけれ
ど、なかなか旨くいかないとのこと。私の戦争体験をブログに書いている事や
その内容を少しお話したら、是非ブログを見たいとの事でブログのタイトルを
教えた。其の時の会話の中で、戦争体験は私たちが語り継がなければ真の内容は伝わらない。今からでも遅くないから記録を残して置かなければ・・・・
との義務感を感じた。覚えているだけでも残して置こう。

2013年8月15日木曜日

終戦の日の思い出 他

2013年8月15日(木)
 今日は終戦の日、メディアなどで、「玉音放送」で終戦を知った などと言っているが、私は「玉音放送」を聞いていない。何故なら、終戦の直前の私の生活は、昼間は普通の生活、だが空襲警報が発令されれば横穴壕に駆け込み、夜は壕の中の竹製のベッドで寝る。そんな毎日の連続だった。
 当日は空襲警報の発令中で壕の中にいた。そのうち、横穴壕の地下工場に動員されていた沖縄第1中学校の男子生徒が全員泣き出した。理由を聞くと、”戦争に負けた” と言う。狐につままれた様な気持ちで地上に出てみると 「玉音放送」 のことを聞かされた。
 戦況から考えると、やはりそうか と思ったが、何か体から力が抜けていくような感じだった。
 5日前の空襲で母校も焼けてしまった。恩師も空襲で怪我をされた。戦争が終わって空爆は無くなったが、生活が急に変わる訳では無い。
 食料品も衣類も ”配給・配給” でまともな生活は出来ない。私の家は八代の親戚が時々お米を持ってきてくれたので、他の家よりは良かったが、僅かに焼け残った衣類を持って漁村に行き、お魚と交換したり、牛や馬のえさの ”ふすま”を農家から貰って、トタン板を電線で繋いだ手製のパン焼き器でパンを焼いて食べる。また、石ころだらけの空き地を耕して野菜を作り、ヤギを飼ってその乳を搾って飲んだりしていた。
 水道も無く、お隣の農家の井戸水を分けて貰って、バケツに水を入れて50メートルほど離れた家まで畦道をバランスをとりながら何回も運んだ。炊事用は勿論、焼け跡から持ってきた 五右衛門風呂 に入れるにはさすがに苦労した。また、水を貰っている農家の田植えの時は何日も手伝いに行った。当時、私は14歳だったが、今思うとよくやったと思う。
 それでも私たちは良いほうで、東京から疎開して来られたお隣の一家は、親戚も無く、家の周りに生えている ”スベリヒユ” と言う雑草を採って食べておられた。

 暫くすると、アメリカ軍が進駐してくるので女子供は避難するように と言われ、以前出入りしていた蜜柑農家(20キロ程離れた蜜柑山)に避難した。

 戦争は終わったものの、普通の生活に戻るにはどれだけの年数がかかっただろう。

 今、テレビで戦争の賛否について話し合っているが、戦争の悲惨さは体験した者でなければわからない。
 


2013年8月13日(月)
 長男夫婦が帰省。お墓参りなど済まし、夜には熊本のホテルに帰った。いつもながら嫁のA美さんの明るさ、優しさに感謝。

2013年8月9日金曜日

原爆投下の日

8月9日は長崎に原爆が投下された日だ。当時、私は7月1日の熊本空襲で焼け出され、上熊本駅近くの 「池田町長迫」 と言う、高台に挟まれた谷間の様なところのバラックのような家に住んでいた。
 当日は何時ものように女学校に登校していた。当時、4年生と5年生は軍需工場に動員されていた。残された私たち3年生以下は、学校護衛隊として登校し、学校が焼夷弾などで火災になったとき、消火活動などをする事になっていた。
 その日も、「空襲警報」 が出され、防空壕に入っていた。ところが先生から
「今日は危ないから全員下校するように」 と言われ帰路についた。
 ところが、京町を過ぎ、池田町の3号線を横切ってかも熊本駅の方へ坂を下りていると、近くの家のラジオから 「長崎地方 全員退避! 長崎地方 全員退避!」 と言う ”悲鳴” のようなアナウンスが聞こえてきた。
 急いで坂を駆け下り、坂の下でNさんと別れ、谷の方へ走った。 と、突然山の陰から米軍機が現れ、私をめがけて機銃掃射を始めた。 3機編隊だった。 私は防空頭巾を被る暇もなく、頭巾をお腹に抱いたままその場に伏せた。 暫く伏せて、通り過ぎたと思い頭を上げると、次の3機がまた襲いかかって来る。 やっと通り過ぎたので一番近い横穴壕に走りこんだ。
 ところがその壕は、韓国人の人たちの壕で、言葉が全く通じない。不安に怯えながら1時間くらい過ぎただろうか。 やっと外が静になったので自宅に帰った。私が伏せていた所は草原で、身を隠せるものは何も無かったので家族は、私が頭を上げたり伏せたりする度に 「あ!やられた! あ! やられた!」 と言っていたそうだ。 私が伏せていた場所からは、薬莢が80個ほど出てきた。
 私を襲ったのは,忘れもしない 「ロッキードP32 双胴機」 だ。頭を上げた時、米兵の顔がはっきり見えた。それほど低いところまで急降下してきたのだ。米兵は笑っているように見えた。
 その頃、長崎では原爆が投下されていたのだ。

2013年8月5日月曜日

暑い夏の出来事!

2013年7月31日
 猛暑の中、
お墓参りに・・・ 花屋さんにより、一番日持ちの良いお花を購入、お墓に行った。駐車場からお墓まで、用水沿いの細い道を行かなければならないが、途中のお墓が用水の方へ傾いているので、最近の私にはお花やお水などを持って通るのが難しい。用水に落ちない様に恐る恐る通って行く。二,三年前までは何でも無かったのだが年毎に足元がおぼつかなくなる。
 母や祖母もそうだったのだろうが若い時はちっとも気が付かなかった。もっとわかってあげられたらよかったのに・・・ いまさら悔やんでも間に合わない。 ボランティア活動も同じではないか・・・ 一生懸命やっていても相手の気持ちに添えていなかったのでは? 自己満足になっていなかったか? 反省しなければならない。

2013年7月29日月曜日

お友達他

2013年7月28日(日)
 恒例の食事会。尾〇さんと和〇さんがすべて準備して下さった。私は左〇〇さんと稲〇さんを車に乗せて会場へ。ホテルは改装中だったが食事のお客さんは結構多く、尾〇さんのご主人のグループも来ておられて、ご主人がわざわざ私たちにご挨拶に来られ、恐縮した。
 次回の食事会の予定を立て、ホテルを出て、マザーグースでお茶、其の後買い物を済ませて散会した。
 ホテルの料理は料金の割りに充実していて皆満足した。



2013年7月26日(金)
 市民病院へ。 今日は患者さんが物凄く多い。 診療を終えた方が、2時間半待たされたと言いながら帰られた。
 藤〇さんに今日録音テープを持参すると連絡しておいたので、15分くらい待った頃に外来まで来てくださった。テープを渡した後、久し振りにゆっくりお話しすることが出来た。結局、私も2時間半待ちで終わったのは3時チョット前だった。

 熊本から直行で八代の碩本医院へ。帰りに、月1回予約の食パンを買って帰った。忙しい1日だった。

2013年7月25日木曜日

いろいろな出来事

2013年7月24日(水)
 何時もの4人,謙帳に集合。ママの好意で、ゆっくり出来た。



2013年7月21日(日)
 参議院議員投票日。日中は暑くて外に出られないので夕方投票に行った。
投票後、長女の同級生の藤〇さん母娘にお会いし、暫く立ち話をした。 


2013年7月20日(土) 
 古文書の学習会。少し早く行ったので、カフェで野〇〇さん、中丸さんと雑談。
 学習会では平〇さんが久し振りに出席されたので、預かっていた会報などをお渡しした。


2013年7月19日(金)
 市民病院で藤村さんと会う。音声訳のCD録音について質問されたので、今度の学習会にパソコンを持参してソフトをインストールし、使い方を教えてもらった方が良いのでは? と助言した。
 和〇さんから連絡あり。28日正午。 ロイヤル、5名とのことだった。



2013年7月18日(木)
 洗濯物を乾かしにコインランドリーへ。 
今日はヴァリューのお野菜が安いとのことで早速買いに行った。必要最小限の品を買い、帰ろうとしたとき、パッタリ和〇さんと出会った。 食事会をしましょうとのことで、計画を彼女にお願いした。決まったら後日連絡するとのこと。


2013年7月17日(水)
 Kさんが救急車で病院に運ばれたとの一報が入り、Yさん、Iさん、Sさんと四人でR病院へ駆けつけたが、もう自宅に帰られたとの事。自宅へ行ったが留守。息子さんに電話をしたがよくわからなかったのでお見舞いを諦めて解散した。


2013年7月16日(金)
 博物館友の会のボランティア。 久し振りに参加したので、お友達との話も弾んだ。90歳で皇居の奉仕作業に行ってきた方もあり、其の積極性と元気さに驚いた。
 其の後、ゆめたうん に行き、ドコモで電子書籍の購入方法を尋ねたが、要領を得なかったので、二階の本屋さんでテキストを見て、ホームアドレスをメモして帰り、ネットを調べたり、少し時間がかかったが、やっと購入することが出来た。
 今日は、あちらこちらと歩き回り、5000歩以上歩いていたが、足の痛みは無かった。ただ、すっかり疲れてしまった。

2013年7月15日月曜日

暑い!

 今日もうだるように暑い。 もう何日も続いている。 何をする気力もなく、仕方なくキッチンで常備菜を作ったり、野菜をペーストにして冷凍したりした。
 午後は ”脳トレ” の準備、「漢字検定4級」 の問題と 「あたま道場」 をコピーした。 4級は少し易しすぎたかな? と思ったが、旧漢字、仮名遣いで育った私たちには基本をおさえて置くのも必要かも知れない。まあ,頑張ってみよう。

2013年7月11日木曜日

脳トレに再挑戦

 昨日の ”電車” の問題に再挑戦。案外簡単に解け、やっぱり本の解答が正解だった。 早とちりは危ない!危ない! 早速〇村さんにメール。彼女からもすぐメールが帰ってきた。
 次の ”脳トレ” は少し趣向を変えてみようかと、ネットで漢字検定の問題集を検索した。 メンバーは、漢字の方が入りやすいような気がして・・・。

2013年7月10日水曜日

お友達

 何時もの四人で勉強会&お食事会をすることになった。11時に中華料理店に集合。 早速お勉強を始める。 録音を聴きながらテキストに目を通す。
其のあとそれぞれ思ったことを言いあったが、私の感じでは、今ひとつ勉強の仕方を摑んでいないように思える。 これは今後の課題だ。
 次は ”脳トレ” 川島隆太教授の 「あたま道場」 の問題に挑戦。 1問目は あみだくじ の問題。 これは解けたが、ちょっと解答をカンニングしたので正解とは言えない。 2問目は、環状線を走る内回りと外回りの電車が、どの駅ですれ違うか? と言う問題。 試行錯誤しながらやっと解けたが、本の解答と順番が違う。何回もやり直したが私たちの答が合っていると思う。結局、本の答が間違いだ!ということで4人とも納得した。
 食事を頼み、楽しいひととき。ママからコーヒーとシャーベットの差し入れがあり、ママに悪いからと ゴマ団子 を追加注文。今日の予定を終わった。
 次回、22日(月)に再会を約して別れた。

2013年7月9日火曜日

高齢者講習

 昨日梅雨明けし、今日もまた猛暑だ。今日は高齢者講習日。受講者は9名。私が最高齢かも? シュミレーションの機器など、3年前よりずっと良くなっている。受講者は9名。私が最高齢かも? 事前テスト(認知機能のテスト)が終わり、あとは何時もの講習。まずまずの出来かな・・と思っていたら、評価はなんとオール5。最近では初めてだと言われた。自分でもビックリだが良いに越したことは無い。 安心せずに慎重な運転をしなければ・・・。

2013年7月6日土曜日

暑い一日

 天気予報は ”曇り” だったのに、朝から気温はうなぎ上り、見る見るうちに30度近くになった。 
 九時半、 「人権サポーター育成講座」 に出席。今日のテーマは 「こどもの人権」 だった。 講師はCAPの畑野さん。 講演や質疑を聴いて感じたのは、今の親や、大人の考え方が、私のそれと随分違っていると言うこと。
私が時代遅れなのか?。あとでじっくり考えてみたい。

 今夜は 「漢詩を読む」 を聴く予定だったが、TVの 「チョイス ひざ痛」 を視ていたら聞き逃してしまった。 月曜日の再放送に挑戦しよう。
 私の膝は、針治療で痛みは殆どなくなったが、正座が出来ない。私にとって正座が出来ないのは大打撃なのだ。何とか正座出来る様にと最近、自分でふくらはぎと大腿四頭筋のマッサージを始めた。 気のせいか少しずつ良くなってきたような気がする。 今度ドクターに尋ねてみよう。

 ドクターTのブログを見る。忙しい中、俳句も作っていられる。 私もまた始めてみようかと思う。

2013年7月3日水曜日

いろいろな出来事

2013年7月1日 (月)
 TVの 「テストの花道」 で ”文章の読み解き”がテーマだったので興味があり、視聴した。
 文章を読み解くには、”サンドイッチ法”が良いとのこと。先ず文章を ”抽象” と ”具体” に分け、最初の ”抽象” と、最後の ”抽象” との間に
”具体” の部分を入れて考えると、何が書かれているかよくわかるとのことだった。 私たちが学んだ ”起承転結” に通じると思う。
 文章を書くときにもたいへん参考になると思った。

 長文を理解には、 ① 出典を見る。 ② 接続詞に注意 との事。 これからの読書には、これらの事を注意しなければ・・・。 大変参考になった。


2013年6月22日 (土)
 昨日,今日と起床時に少しめまいを感じたので、〇本医院へ。気候の変わり目なので心配することはないだろうとのこと。お薬を頂いて帰った。


2013年6月18日火曜日

今後の生活のプログラムを考える

6月17日(月) 米〇さん、稲〇さん、左〇〇さんと食事会。かねてからボケ防止のため、何かしょうか、と言っていたので、私が 「川島隆太の脳トレ道場」の本の中の2問をコピーして持参した。食事のあと、皆で挑戦したがなかなか解けない。やっとのことで2問目は解けたが、1問目は時間がかかりそう。
結局、次回までの宿題で持ち帰ることになった。
 久し振りにいろんな話が沢山出来たし、美味しい食事もいただき、大笑いする事もできて、とってもハッピーな時間だった。


6月16日(日) 昨日の古文書の学習会の分で,釈文の間違っていたところを訂正。以前よりは間違いの箇所が幾分少なくなってきた。


6月15日(土) 古文書の学習会。博物館の日直はT学芸員だった。かねて気になっていた 「連歌」 について教えてもらった。「連歌」は俳句や短歌と違って、 「お題」 がある事や、自分一人で作るのではなく、他の人とのかかわりもあるので 「脳トレ」 に適しているとの事。今度「連歌会」を開く時は連絡します。と言っていただいた。


6月13日(金) 教育テレビで 「自分史を作ろう」 という話題があった。「自分史」と言うとなにもかも書かなければならないのか、と思って 一歩踏み出せない気持ちがあったが、趣味について・写真の中から思い出を・・などなど、いろいろな切り口があることを知った。
 それなら私にも出来そうな気がする。挑戦してみようか・・・・・

2013年6月11日火曜日

いろいろな出来事

6月8日(土) 「市民人権サポート育成講座」 受講のため、千丁支所へ。
 1日目は、「部落差別」 について、八代市の現状報告があった。 「部落差別」 については、PTAの役員をしていた頃よく耳にしていたが、其の頃とは少し事情が違うようだ。 


6月7日(金) 市民病院へ。先週あげた 「杏ジャム」 が美味しかったと看護士さんからお礼の言葉をいただいた。この時季、杏を沢山いただくので、手作りのジャムをあちこちにお裾分けしている。


6月5日(水) 水〇さんへハチミツを発送。其の後歯科医院へ。 帰宅後、八代市千丁支所に 「市民人権サポート育成講座」 の受講を申し込む。
 80数年、沢山の人に支えられて生きてきたので、何かお返しが出来ないものかと思ったからだ。 少しでもお役に立てれば良いな、と思う。


6月3日(月) 市〇さんと約束のお食事。リニューアルした 「漁師海鮮 宗弘」 へ。 新鮮なお魚がとっても美味しかった。彼女とは数年来の約束だったため、話題が多く、つい長居をしてしまった。 久し振りに充実した時間だった。
 帰りに江〇さん宅に寄り、熊本の水〇さんから頼まれていたハチミツを購入。子どもたちの話や、お孫さんのDVDを見せていただいたりして、暫く時を過ごした。


5月29日(水) 岡〇文子さんの誕生会のため、Sさん夫婦と四人で三角町の 「浜ん小浦」 に食事にいった。 地のもののお魚が食べたかったのだが、メニューは満足できるものではなかった。少しがっかり。
 帰りに上天草市の物産館に立寄り、「大豆のお肉」 を買って帰った。

2013年5月28日火曜日

友人と食事

27日(月) 宮崎の田〇さんから、クラス会の写真が届いた。 田〇さんとは、ここ数年、なかなか連絡が取れていなかったので、またいろんな連絡が出来る様になり、嬉しかった。早速お礼状を出した。


24日(金) こんぴら丸で四人で食事。Wさん、Oさん、Sさんと私。新鮮なお魚料理をいただきながら話は尽きない。ついにオーダーストップになり、また、食事会をすることを約束して別れた。

 帰りに,Sさん宅で、岡〇さんのお誕生会の予定を立て、29日に三角町に行くことに決めた。

 帰宅後、急に暑くなったので、衣服の入れ替えに大忙しだった。

2013年5月20日月曜日

友とのつながり

19日(日) クラス会のため熊本へ。道路状況が良かったので、予定より早く
会場に着いた。次々に懐かしい顔が集まり、10年ぶりの宮崎の田〇さんなど、総勢10人になった。 思い出話や、近況、体調、出席できなかった友人の事など、83歳の集まりとは思えないほど盛り上がってしまった。佐賀や福岡に帰る人の電車の時間に合わせて、少しロビーでくつろぎ、皆さんを見送って帰宅したのは午後6時ちょっと前だったが本当に楽しい一日だった。
 帰って直ぐ、会場のお世話などして下さったFさんとMさんにお礼のメールを送った。


18日(土) 午前中、歯科医院へ。  
 2,3日前から腰が痛く、歩くのが少し辛かったので、昨日、市民病院で腰に鍼をしてもらったが、まだ少し痛い。かかりつけの〇本医院でレントゲンを撮って貰ったら、「疲労骨折はしていないが、背骨の下の所の軟骨が、少し変形している」とのことで、背中に痛み止めの注射を2本打って貰った。

 薬局でお薬を待っていると、尾〇さんから電話があり、24日の誕生会の予約が出来たとの連絡があった。


 午後は古文書の勉強会のため、博物館へ行く。 少し時間が早かったので、開催中の「高浜焼き」の展示を見ていると、展示監視の市〇さんと会った。 ずっと前から「一度二人でお食事をしましょう」と誘われていたのだが、なかなかタイミングが合わず実現していなかった。 「今日はもう決めましょう」と言うことで、6月3日(月)に会食をする事になった。


17日(金) 市民病院の通院日。 治療を終わって廊下に出ると、現役の時の同僚の岡〇怜子さんが待って居られた。18年ぶりの再会だ。院内のレストランで食事を共にしながら積もる話に花が咲いた。思考の方向が同じだった私たちは、お互いに助け合いながら仕事をしたものだ。つい、3時間も話し込んでしまった。彼女は金曜日が通院日だとわかったので、また時々会いに来ます、と言って帰られた。

2013年5月15日水曜日

付属小クラス会

〇嶋さんより電話あり。 福〇さんが東京から帰省されるので19日(日)にクラス会を開きたいとの事。80歳を超えて、毎年1回のペースで開かれている。お互い、体力の低下が目に見えるようになったが、今回も八、九人は集まるとのこと。 また楽しいひとときを過ごすことが出来る。 これからもずっと続くことを祈りたい。

2013年5月12日日曜日

書道の師と久し振りに歓談

今、東京の息子夫婦から母の日のプレゼントが届いた。早速お礼のメールをしなければ・・・。A美さんは私の好きなものをよく覚えていてくれて嬉しい。良いお嫁さんで、息子もきっと幸せだろう。



昨日、書道の添削を提出しに行き、先生のお時間が空いていたので声を掛けて頂き、久し振りにゆっくりお話しすることが出来た。書道の作品について、お手本は、文化勲章の受章者、「村上三島集」の中から選んで頂いていること、漢詩のいろいろに就いて教えて頂いたり、美術館、博物館の話など思わず話し込んでしまった。充実した時間だった。

 夜の「漢詩を読む」の放送の時間も新たな気持ちで聴くことが出来た。

2013年5月7日火曜日

電子書籍他

NHK趣味do楽の 「仏像拝観の手引 日本巡礼」 のテキストが欲しかったが、いつも手元に置いて見たいので、電子書籍に挑戦することにした。 家で何回もやってみたが、なかなかサイトに行くことが出来ない。もう、教えてもらうしかないと思い、歯医者の帰りにドコモに行って助けて貰うことにした。
 ドコモでは、若い男性が時間をかけて、丁寧に教えて下さった。途中で四方山話などもしてしまったが・・・。 兎に角兎に角丁寧に教えて下さったので、大事な時間を邪魔してしまって申し訳なかったと反省しきり。

 夜、「松井秀樹」 の特集番組で、苦しい時も信念を曲げず努力の人だと言っていた。 其の中で、「信念」 とは 「名声を得ることでもなく,金銭を得る事でもない。終焉の時に、自分の生き方に誇りをもてることだ。」と言う言葉があった。(作家の伊集院静氏の言葉)。 重たい言葉だった。

2013年5月6日月曜日

毎日の出来事

6日(月) 久し振りに町の図書館へ。連休中だからなのか入館者は少なかった。先ず「NHKきょうの料理」で、気になっていたレシピをメモ。と言っても手書きでは出来ない(手が痛くてかけない)ので、スマホのカメラでパチリ!
何枚か撮れたので、次はデスクの方に行って、腰を落ち着けて1時間半ほど古文書の釈文の点検をした。久し振りの静かな雰囲気を味わって満足だった。
 帰ったらレシピをパソコンに移して置かなければ・・・。



5月1日 (木) 4月のお花見の時にHさんから頂いた、無農薬の甘夏でマーマレードを作った。ジャムの瓶2本にたっぷり出来た。今年はジャムの新しい利用法を覚えたので、早速、いろいろと試して見たい。先ず最初に、胡麻ドレッシングの中に、胡麻2、マーマレード1の割合で混ぜてサラダにかけてみた。まろやかな味で、とっても美味しかった。マーマレードでなくても、杏ジャムでもいけそうだ。

2013年4月28日日曜日

孫からの電話

孫のぴーちゃんから電話があった。この前あったのは6,7年前だったろうか。 もう24歳、来月は25歳になる。「私の年齢は平成と同じだから覚えやすいでしょう?」と笑っていた。 今年の秋に会いに行きたいが良いでしょうかとのこと。 勿論、大歓迎だ。
 秋までに少しでも体力をつけておかなければ・・・。

 連休に入るとテレビ番組の面白いのが少なくなるので,撮り溜めて置いたビデオテープの整理を早く済ませなければ。 とりあえず60本ほど終わったので、今夜は「ルオー」の絵画を1時間ほど視る事が出来た。

 漢詩の放送は、毎回聞いているが、勉強の方法が今一つ解からないのがもどかしい。

古文書も、書道も、やらなければならない事が山積している。

2013年4月18日木曜日

出来事

 昨夜、Wさんから電話を頂いた。 4月1日以降会ってないのでどうしているのかと心配して下さったのだ。 何時も気を遣って頂いて本当に有難い。良いお友達に恵まれて私は幸せ者だと思った。

 漢詩を読み直しながら、女学校時代を思い出した。三年生の4月、最初の漢文の時間の事。先生から「漢文は敵国の文学だから、今年から授業は廃止になりました」とのお話があり、がっかりしたものだ。 時は大東亜戦争の最中、仕方が無い。でも、先生が、「ととこれは有名な詩だから、覚えておく様に」 と、蘇軾の「前赤壁の賦」 を読んで下さった。
 それから78年、今、蘇軾の詩に出会っている。今度はしっかり読まなければ・・・。

2013年4月16日火曜日

溜まっていた仕事を片付ける

 昨日、注文していた書道用の机が納入された。今日は早速4月の課題を仕上げ、提出した。

漢詩の勉強も、どんな方法がいいのか迷っていたが、考えていても仕様が無いので兎に角、取り掛かってみた。
 先ず、漢詩の形式について調べ、韻についてもテキストを参考に調べ、少し分ってきたような気がする。
 さらに、作者について・・・。 蘇軾や杜甫など、少しづつわかると同時に、興味も沸いてきた。
 一応、第2回までの要点をメモしたが、もう一度テキストを読み直してみると、補足する部分が沢山ある様だ。
 今週末は古文書もある。釈文は出来ているが、もう一度眼を通しておかなければ・・

2013年4月13日土曜日

仲良し4人でお食事

4月13日(土) 漢詩 「遊山西村」 の始めの24文字を草書体で書いてみた。 草書体に直すこと自体が難しい上に、連綿の書にすることは更に難しかった。


4月11日(木) 書道の4月の課題の漢字を書く。仮名は後日。夕方、温泉に行き、温まって帰った。


4月10日(水)  久し振りのお食事会。漢詩の第1回の放送を聴いての感想。皆「難しかった」との意見だった。
 食事をしながら夫々の暮らしぶりの話し、最近は息子さんがいろいろと面倒を見てくれるので何にもしない とのIさんの話に、それはダメ!と3人。
 それならIさん宅で、月1回料理教室をしようか、と提案したがなかなか決まらない。 4月は行事が多いので今度集まるのは5月にしようと言うことで解散した。

2013年4月7日日曜日

新しい年度の始まり

4月6日(土) カルチャーラジオ「漢詩を読む」の第1回放送日。放送時間を忘れない様にスマホにアラームを設定しておいた。
 今年度のテーマは,”中国のくらしのうた”で,第1回は「春祭」、氏神様のお祭を謡った3篇の詩。 「祭(社日)」は春秋2回、いずれも立春と立秋後の、5回目の戊(つちのえ)の日に行なうと決められていた。
 今年の春祭は3月23日戊子(つちのえね)であった。 「遊山西村」 
(陸遊43歳の詩)では、山深い村の楊の枝が垂れ、満開の桃李の花のもとのお祭の様子が目に浮かぶようだ。
 句の最後の文字の横の・印は韻を踏んでいるということなのか?

 「社雨」は陸遊79歳の詩。北宋の詩人、宛陵先生(梅堯臣)のスタイルに倣ったもの。雨の中での農耕の様子、かつて訪れた中国の農村の風景が思い出される。 水牛に引かれた荷車に乗り、家1軒見当たらない、果てしなく広がる農地に向う農夫、田圃の中に椅子を持ち込み、腰を下ろしながら田植えをする2,3人の人影。実にのんびりした風景だった。

 3つ目は「社日」、(七言絶句) 晩唐の王駕の作。(豚柵鶏棲半扉)の句では、自由に歩き回っている鶏、時には突然飛び出した大きな豚に驚き、悲鳴を上げた事を思い出す。
 「社日」ではないが(メーデー)の賑わいにも出会ったことがあった。

これからも聴き忘れが無いように頑張ろう。これらの漢詩を書にも残せたらいいナ・・・と思う。


4月2日(火) 昨年から喉に異常感があったので、念のため耳鼻科で診て貰った。幸い以上は無く,加齢による声帯の筋力の衰えかも知れない、とのことで一応安心した。

2013年4月2日火曜日

出来事




4月1日(月) 萌の会恒例の花見。例年通り、麦島東西公民館で開かれた。
 全員の3分間スピーチでは、皆さんの前向きな姿勢に圧倒され、萌の会の発展に確信を得た。私たちの4人の退会は認められず、相談役として名簿に残ることになったが、静かに去ることが出来そうだ。
 散会後、米〇さん、左〇〇さん、和〇さん、尾〇さんと5人で、稲〇さんを総合病院にお見舞いし、帰りに1Fのカフェでお茶して帰った。


3月28日(水) ソフトを改めてインストールし直した。再度CD録音に挑戦しよう。

3月25日(月) プレクストークのアンインストールのため、センターに行き、浜〇さんにお願いしてアンインストールして貰った。
改めてインストールするため、ソフトを借りて帰った。
 TVで、サッカーの本田圭祐選手の特集があった。本田選手の言葉の中に
「自分が喜んだ時よりも、人を喜ばせた時の方が、真の幸せを感じることが出来る」 と言う言葉があった。 
 自分を含め、皆がそんな気持ちを持つ世の中であればいいナ・・・ と思う。

2013年3月20日水曜日

出来事

3月19日(火) 昨日の原稿の字数が違っていたとのことで、再び4人集まって原稿の修正をした。ついでに昼食会も・・・。


3月18日(月) 萌の会、今日が私たちにとって最終の学習会。会員の皆さんが頑張って下さるのでスッキリした気持ちで去ることが出来る。去るにあたって広報誌に原稿を・・・とのことで、午後の役員会を早めに退席させていただき、稲〇さん宅へ行き、4人で原稿を書いた。


3月16日(土) 博物館の「仏画へのいざない」の解説ボランテイアの当番日。午前中の当番だったが、私の町のお寺さんの団体がバス2台で到着。顔見知りの方が多く、少し仕事が出来たかな?と思った。
 午後は古文書の予定だったが、先生が体調が悪いとのことでお休みになった。


3月14日(木) ホワイトデーのお返しとしてSさん一家からお食事のお誘いを受けた。 一家と共に若竹で食事、楽しいひとときを過ごすことが出来た。

2013年3月13日水曜日

いろいろな出来事

3月12日(火) 長男からデジカメが送ってきた。 去年、モンサンミッシエルに行った時、途中で私のカメラが壊れてしまった。あとで新しいカメラを買ってあげると言ってくれていたのだ。早速お礼のメールを送った。


3月11日(月) プレックストーク野CD書き込みの方法を教えてもらうため総合センターへ。Hさん、TさんがCD整理のため頑張っていられた。二人にいろいろ教えてもらって、3時ごろ帰宅した。


3月9日(土) 博物館友の会の研修旅行。朝、7時に家を出たが、博物館では既にバスの半分くらいの席が埋まっていた。顔見知りの方のお隣に座り、旅が始まった。「八代城主・加藤正方のルーツ 阿蘇・内牧を巡る」 T学芸員から資料を貰い、出発。車中で学習をしながら目的地へ。先ず、加藤正方の父・可重の菩提寺、浄信寺を拝観。住職の叶一善さんの読経があり、其の後、お接待を頂いた。
 昼食後、加藤可重墓所・福の神を参拝後、阿蘇神社へ向った。
阿蘇神社では、宮司のお払いを受けたがテレビの収録もあり、宮司さん始め皆少し緊張していたようだった。 其の後、阿蘇神社権禰宜の池浦秀隆さんから神社の歴史や、建物の説明をお聞きした。 大変貴重なお話だった。

10日にはT学芸員による *やつしろワクワク連歌!* の催し画あるとのこと。興味深々だが体力に自信が無い。


3月8日(金) 市民病院の通院日。珍しく待ち時間が無く、早く済んだので帰りに上の裏町のMさんのお店に立寄った。暫くぶりだったので話すことが溜まっていて、お互いに夢中になり、随分長くお邪魔してしまった。


3月7日(木) 古文書釈文の点検を終わらないと次の学習会まで間に合わないと思い、頑張って30ページまで済ませてしまった。明日から行事予定が詰まっている。

2013年3月6日水曜日

出来事

3月4日(月) 萌の会学習会。新役員の選出が議題となり、私たち4名は脱会を申し出たがなかなか認めて貰えず、結局、相談役として名簿に残ることになった。

3月5日(火) 先日、テレビで放映されていたレシピを参考に、炊飯器でチャーハンを作ってみた。 卵を入れ忘れたが、結構いい具合に出来たので、半分だけSさんにおすそ分けした。 Sさんからは、炊飯器で出来るケーキのレシピを頂いた。そのうち挑戦してみよう。
 夜は古文書の釈文の見直し。22ページまで終わった。訂正部分は以外に少なかった。後8ページ、頑張ろう。

3月6日(水) 午前中、少し身辺の整理をした後、書道の月例の漢字、楷、行,草を終わり,仮名と草書の連綿、隷書は後日に残した。

2013年2月25日月曜日

出来事

21日(水) ”仏画展” のボランティア当番日。少し早めに家を出て博物館へ。 〇木先生と当番をご一緒した。 午前中、展示品をゆっくり見る事もできたし、先生と一緒と言うことで安心して当番が出来た。
 当番終了後、カフェで昼食を共にした。 日頃ゆっくりお話しする機会が無かったので、いろいろと沢山お話が出来た。 帰ってから、少しお喋りが過ぎたかな? 先生にはご迷惑ではなかったかとチョット反省。でも、楽しい時間だった。
 夜は、古文書の23ページ迄、釈文を終わった。今のところ、一晩に2ページのペースでいけそうだ。

24日(日) 午後,崇城大学の「中西真美子」先生の講演を聴きに博物館へ。 曼陀羅の読み解きは分りやすく、もう一度ゆっくり曼陀羅を見直してみようと思った。

25日(月) 書道の添削を受け取りに幹城先生宅へ。次のお手本も頂いて来た。

2013年2月16日土曜日

出来事

15日(金) 病院の待ち時間に読もうと思って持参した本、1987年のNHKの市民大学講座の ”祈りの造形”。 待ち時間が無かったため、お弁当を食べながら30分ほど目を通した。 26年前勉強したことが少しずつ蘇ってくる。もう一度読み直したくなって来た。 仏画の解説ボランテイアにも役立ちそうだ。

帰宅後、TVで "禅の生活” の放映を視た。 長く生きて来た為か ”生きることへの不安” は私にはもう無い。 生かされていることに感謝し、限られた時間を精一杯有効に過ごしたい。 この考え方は偶然にも ”禅の生活” に合致しているようでチョット驚いた。

高校卒業後、天文学を少しかじった頃は、あの世に行ったら宇宙の星の間を飛び回っていたい、などと考えていた。

”祈りの造形” で 仏様の事を学び、中国を旅し、敦厚の ”莫高窟” を訪れたり、博物館の友の会で国内の寺院を訪れる毎に、次の世では億万浄土を旅したい などと考え始めた。楽天的な性格もいいものだ・・・

2013年2月14日木曜日

いろいろな出来事

 9日(土) Iさんからの呼びかけでいつもの4人で食事会をする事になった。予定していた集合場所はイベントで混雑していたので、急遽 ”謙〇” に変更。 久し振りにゆっくり語り合うことが出来た。

 10日(日) ”新日曜美術館”で、”ヴィルヘルム・ハンマース・ホイ” の展覧会の放映があった。 デンマークには以前、熊本県立美術館のツアーで訪れたことがある。”ホイ” の絵は、コペンハーゲンの国立美術館で観たのだと思う。 人物画は「後姿」が多く、空気が停まっているような気配を感じた。開け放たれたドア、澄んだ空気が静かに流れている様な、心が洗われる様な感じがしたことを覚えている。
 コペンハーゲンでは、チボリガーデンにも行った。美術館のツアーは何時も6名一班で行動することになっている。私は班長にされることが多いので、そのときも大勢の観光客の中で迷子にならないように気を配らなければならなかった。でも、皆さんの協力のお蔭で何事も無く、楽しい時間を過ごすことが出来た。
 クロンボー城も見学することが出来た。 今は思い出だけを楽しんでいる。

 12日(火) 未来の森ミュージアムのボランティア。 久し振りに顔をあわせた皆さんといろんな話題が飛び交う。 終了後、友の会の日帰り旅行に友人と3名、先行予約した。

2013年2月5日火曜日

「萌」 新体制へ

 4日(月) 午前中、学習会。 午後、役員会で新年度の体制作りのための話し合い。役員の年齢も若返って活発な活動が出来るよう、色々な案が出された。
 私は音声訳をCDにコピーする方法をHさんに教えて貰った。 帰って試してみた。 コピー「進行中」の画面が続き、喜んでいると最後に 「アクセスエラー」 となり、ガッカリ。 何回繰り返してもダメ。 再度ご教授願わなければ・・・

2013年2月2日土曜日

如月

 あっと言う間に1月が終わり、今日から二月。2ヶ所の病院へ行ったり、食料品を買いに行ったり、忙しい1日だった。
 夜、TVで 「琳派の美」が放映されていた。 数年前、根津美術館がリニューアルされる前に,慌てて根津美術館を訪れたことを思い出す。リニューアルの工事に入ると、3年間は休館になるからだ。高齢の私にとっては3年後の体調には自信が持てなかった。
 「燕子花図屏風」 を見たい! 青山の静かな佇まいの美術館へ・・・ こじんまりした美術館は緑の庭園の中にあった。
 館内は5,6人の来館者でゆっくり鑑賞することが出来た。先ず,俵屋宗達の「風神・雷神」の前で足が停まる。金箔の地に描かれた「風神・雷神」が圧巻だ。少しずつ足を運び、奥へ入る。 お目当ての屏風は正面奥のスペースいっぱいに拡がっていた。 金箔地に紫の花と緑の葉っぱだけの構成で、見事な空間をかもし出している。 右のほうから少し斜めに見ると、立体的で、また違った雰囲気がある。
 俵屋宗達から尾方光琳まで100年、光琳から酒井抱一まで100年、琳派の華やかさは少しずつ変わりながら京都から江戸まで拡がっていったのだ。
 以前、東京国立博物館に行ったとき、記念に酒井抱一の(夏秋草模様図屏風)に因んだスカーフを購入した。今でも大事に使っている。

2013年1月31日木曜日

美術展の思い出

 27日(日) 新日曜美術館で、「いのちに触れた筆 日本画家 高山辰雄」が放映された。 ”平山郁夫”と共に私の大好きな画家だ。
 17,8年も前になるだろうか。八代の未来の森ミュージアムで、高山の画と始めて出合った。100号ほどの絵で 「抱く」 と題してあった。 展示室の置くの絵の前に足が止まった。 どれほどの時間佇んでいたのだろう。なんとも言えない宇宙のようなバックの中に、子どもを抱いた女性が溶け込むような感じで描かれている。私は期間中、3回ほど訪れ、その絵の前から離れることができなかった。 
 それから数年後、大分で「高山辰雄展」が開かれるのを知り、夕方の電車で急遽大分へ。途中、夕焼けに染まったピンクの阿蘇山に感動しながら、夜8時過ぎ大分駅に到着。駅前の小さなホテルに泊まった。
 翌日、早速「大分県立芸術会館」へ向った。 館内いっぱいにデッサンから、作品を年代順に展示してあった。
 私みたいな素人にはとっても見やすい展示法だと思った。先ず最初は初期の作品。私の中の「日本画」の概念に最も近い作品だが、「浴室」など、バックは具体的なものは何も無く,湯気が漂っている雰囲気に驚いた。
 中期の部屋に行くと、「これが日本画?」と目を疑うような作品が並んでいる。「何かに似ている」と思った。思い出した! ゴーギャンだ。ゴーギャンを髣髴とさせる鮮やかな色使い。こんな時代もあったのか!
 後期の部屋。ここには私の大好きな絵がズラリと並んでいた。「抱く」を始め、「食べる」、「街角」etc. 多くの時間をこの部屋で過ごした。
 「高山辰雄」の宇宙の中に漂い、満足感いっぱいで帰途についた。

2013年1月27日日曜日

TVドラマ

 昨日、TVドラマ「ゆりちか へ ままからの伝言」 を観た。 妊娠中に余命4年の癌の告知を受けた女性。 出産とがん治療の選択を迫られ、悩んだ挙句、其の両方を選択し、壮絶な戦いに挑んだ毎日。
 生まれた娘への愛に満ち溢れた伝言。”お友達をたくさんつくりましょう。お友達は多いほうが良い。” ”笑顔を忘れないように・・・” ”ぶつかりそうになったら、避けて通ることも必要” etc. 残された時間をギリギリまでつかって遺した伝言。
 「ゆりかちゃん」だけでなく、すべての人の心に響く言葉だと思う。 人生の終章を生きている私にとっては、時間を有意義に使うため、或はその生き様を考えるためのヒントになることと思われる。 一度手にとって読んでみたい。

2013年1月21日月曜日

出来事

 20日(日) 博物館解説ボランティアの勉強会。 曼陀羅の絵解きについて勉強した。 当麻寺の絵解きを聞いたことはあるが、自分が入館者のお手伝いをすることの難しさを痛感した。 特別展の開会までにはもう少し自分なりに調べて準備しなければならないだろう。

 21日(月) 午前中、萌の会の学習中に、突然Hさんが倒れられた。 直ぐ救急車を呼ぶ。 救急隊員の話では、脳梗塞で、右半身麻痺の模様。 労災病院へ搬送された。 暫く入院の必要があるとのこと。
 午後は、予定されていた新年会のため、全員Rホテルへ移動。 余興や福引などもあり、ご馳走を堪能して散会した。

2013年1月19日土曜日

対面朗読

 1月17日(木) 第三もくようびは 「かんねさこ荘」 の対面朗読の日だ。午後1時半、かんねさこに到着。 Sさん、Oさん、Iさんと4人で会場を準備した。 入所者の方がボツボツと集まって来られる。 Oさんの 「死ぬかと思った」と言う短編集に始まり、Sさんの 「犬の物語」 Iさんの 「彦一頓知話」、と続き、最後は私の番だ。萌の会を脱会することを決めている私にとっては最後の朗読になる。 最初に 「切腹した彦一」 次は創作童話 「おめき石」といって、天草の「今泉」と言うところに語り継がれているお話を読んだ。 皆さん興味深そうに聞いて頂けた。 終わりに 「皆さんもいろんな所に残っているお話があったら教えてくださいネ」 と言うと 「ハーイ」 と言う元気な声が返ってきた。 
 朗読会を終わって、車椅子を押してお部屋に向う途中、『又来てくださいネ』と声を掛けられ、「又きますヨ」 と答えたが これが最後だと思い、少し心が痛んだ。

2013年1月15日火曜日

「夜と霧」を読んで

14日(土) 「夜と霧」を読み終わった。 
 読み進むに連れて、かつて訪れたアウシュヴィッツの情景と、ガイドの説明が蘇ってくる。スーツケースが山積みにされた部屋、眼鏡が、靴が(ハイヒールも含まれていた)・・・。それぞれの部屋に山積みにされていた。 中でも女性の被収容者の毛髪で織られた毛布など、思わず目を背けてしまった。ナチスの兵士が使っていたと言う。 ギロチン、或は死者をトロッコに載せて運んだ焼却炉など・・・。言葉さえなかった。「ガス室」は少し離れたところから見ることが出来た。周囲は高圧電流の通った高い鉄条網に囲まれ、収容所は殺伐とした平野の中にあった。
 ガイドのマリアさんの従兄弟もここで処刑されたとの事。「悲しいネ」とうつむいた彼女の姿が忘れられない。
 「夜と霧」の中でニーチェの格言が目を引いた。
  【 なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える 】
ことあるごとに「生きる目的」を意識しなければならない。
 フランクルは、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張りぬく意味も見失った人は痛ましい限りだった。そのような人々はよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。
 と言っている。
重たい言葉だ。