2013年8月26日月曜日

久し振りの雨、熊本総合病院受診

2013年8月26日(月)
 昨夜から久し振りの雨。雷鳴もとどろき、大荒れだった。今日は総合病院の受診日。小止みになることを祈ったがやはり大雨でがっかり。
 数日前の二の腕の痺れが気になり受診した。レントゲンの結果は異常なし。9年前の”撓骨神経麻痺”の症状でペインクリニックで治療を続けるようにとの事だった。新たな症状ではなかったので先ずは一安心。
 帰りにはお天気も回復、明日はお洗濯をしなければ・・・。

2013年8月25日日曜日

最近思うこと

2013年8月24日 (土)
 Eテレで、内村鑑三のことば が放映されていた。関東大震災の後に書かれたものだが、「天災はたしかに天罰であるが、悪人が天災を蒙ればそれはまさに天罰であり、義人が天災を蒙れば、それは試練である。」 という言葉が心に残った。
 私が今まで経験した苦労・悩みも確かに試練であり、それによっていろいろな事をたくさん勉強することが出来たと思う。これまでの経験に感謝しなければ・・・。


2013年8月23日(金)
 市民病院の待ち時間に患者さんのTさんとお話することが出来た。Tさんの子供さんが6年生で、今度広島に行かれるので、戦争の事を調べたいけれ
ど、なかなか旨くいかないとのこと。私の戦争体験をブログに書いている事や
その内容を少しお話したら、是非ブログを見たいとの事でブログのタイトルを
教えた。其の時の会話の中で、戦争体験は私たちが語り継がなければ真の内容は伝わらない。今からでも遅くないから記録を残して置かなければ・・・・
との義務感を感じた。覚えているだけでも残して置こう。

2013年8月15日木曜日

終戦の日の思い出 他

2013年8月15日(木)
 今日は終戦の日、メディアなどで、「玉音放送」で終戦を知った などと言っているが、私は「玉音放送」を聞いていない。何故なら、終戦の直前の私の生活は、昼間は普通の生活、だが空襲警報が発令されれば横穴壕に駆け込み、夜は壕の中の竹製のベッドで寝る。そんな毎日の連続だった。
 当日は空襲警報の発令中で壕の中にいた。そのうち、横穴壕の地下工場に動員されていた沖縄第1中学校の男子生徒が全員泣き出した。理由を聞くと、”戦争に負けた” と言う。狐につままれた様な気持ちで地上に出てみると 「玉音放送」 のことを聞かされた。
 戦況から考えると、やはりそうか と思ったが、何か体から力が抜けていくような感じだった。
 5日前の空襲で母校も焼けてしまった。恩師も空襲で怪我をされた。戦争が終わって空爆は無くなったが、生活が急に変わる訳では無い。
 食料品も衣類も ”配給・配給” でまともな生活は出来ない。私の家は八代の親戚が時々お米を持ってきてくれたので、他の家よりは良かったが、僅かに焼け残った衣類を持って漁村に行き、お魚と交換したり、牛や馬のえさの ”ふすま”を農家から貰って、トタン板を電線で繋いだ手製のパン焼き器でパンを焼いて食べる。また、石ころだらけの空き地を耕して野菜を作り、ヤギを飼ってその乳を搾って飲んだりしていた。
 水道も無く、お隣の農家の井戸水を分けて貰って、バケツに水を入れて50メートルほど離れた家まで畦道をバランスをとりながら何回も運んだ。炊事用は勿論、焼け跡から持ってきた 五右衛門風呂 に入れるにはさすがに苦労した。また、水を貰っている農家の田植えの時は何日も手伝いに行った。当時、私は14歳だったが、今思うとよくやったと思う。
 それでも私たちは良いほうで、東京から疎開して来られたお隣の一家は、親戚も無く、家の周りに生えている ”スベリヒユ” と言う雑草を採って食べておられた。

 暫くすると、アメリカ軍が進駐してくるので女子供は避難するように と言われ、以前出入りしていた蜜柑農家(20キロ程離れた蜜柑山)に避難した。

 戦争は終わったものの、普通の生活に戻るにはどれだけの年数がかかっただろう。

 今、テレビで戦争の賛否について話し合っているが、戦争の悲惨さは体験した者でなければわからない。
 


2013年8月13日(月)
 長男夫婦が帰省。お墓参りなど済まし、夜には熊本のホテルに帰った。いつもながら嫁のA美さんの明るさ、優しさに感謝。

2013年8月9日金曜日

原爆投下の日

8月9日は長崎に原爆が投下された日だ。当時、私は7月1日の熊本空襲で焼け出され、上熊本駅近くの 「池田町長迫」 と言う、高台に挟まれた谷間の様なところのバラックのような家に住んでいた。
 当日は何時ものように女学校に登校していた。当時、4年生と5年生は軍需工場に動員されていた。残された私たち3年生以下は、学校護衛隊として登校し、学校が焼夷弾などで火災になったとき、消火活動などをする事になっていた。
 その日も、「空襲警報」 が出され、防空壕に入っていた。ところが先生から
「今日は危ないから全員下校するように」 と言われ帰路についた。
 ところが、京町を過ぎ、池田町の3号線を横切ってかも熊本駅の方へ坂を下りていると、近くの家のラジオから 「長崎地方 全員退避! 長崎地方 全員退避!」 と言う ”悲鳴” のようなアナウンスが聞こえてきた。
 急いで坂を駆け下り、坂の下でNさんと別れ、谷の方へ走った。 と、突然山の陰から米軍機が現れ、私をめがけて機銃掃射を始めた。 3機編隊だった。 私は防空頭巾を被る暇もなく、頭巾をお腹に抱いたままその場に伏せた。 暫く伏せて、通り過ぎたと思い頭を上げると、次の3機がまた襲いかかって来る。 やっと通り過ぎたので一番近い横穴壕に走りこんだ。
 ところがその壕は、韓国人の人たちの壕で、言葉が全く通じない。不安に怯えながら1時間くらい過ぎただろうか。 やっと外が静になったので自宅に帰った。私が伏せていた所は草原で、身を隠せるものは何も無かったので家族は、私が頭を上げたり伏せたりする度に 「あ!やられた! あ! やられた!」 と言っていたそうだ。 私が伏せていた場所からは、薬莢が80個ほど出てきた。
 私を襲ったのは,忘れもしない 「ロッキードP32 双胴機」 だ。頭を上げた時、米兵の顔がはっきり見えた。それほど低いところまで急降下してきたのだ。米兵は笑っているように見えた。
 その頃、長崎では原爆が投下されていたのだ。

2013年8月5日月曜日

暑い夏の出来事!

2013年7月31日
 猛暑の中、
お墓参りに・・・ 花屋さんにより、一番日持ちの良いお花を購入、お墓に行った。駐車場からお墓まで、用水沿いの細い道を行かなければならないが、途中のお墓が用水の方へ傾いているので、最近の私にはお花やお水などを持って通るのが難しい。用水に落ちない様に恐る恐る通って行く。二,三年前までは何でも無かったのだが年毎に足元がおぼつかなくなる。
 母や祖母もそうだったのだろうが若い時はちっとも気が付かなかった。もっとわかってあげられたらよかったのに・・・ いまさら悔やんでも間に合わない。 ボランティア活動も同じではないか・・・ 一生懸命やっていても相手の気持ちに添えていなかったのでは? 自己満足になっていなかったか? 反省しなければならない。