2013年8月15日(木)
今日は終戦の日、メディアなどで、「玉音放送」で終戦を知った などと言っているが、私は「玉音放送」を聞いていない。何故なら、終戦の直前の私の生活は、昼間は普通の生活、だが空襲警報が発令されれば横穴壕に駆け込み、夜は壕の中の竹製のベッドで寝る。そんな毎日の連続だった。
当日は空襲警報の発令中で壕の中にいた。そのうち、横穴壕の地下工場に動員されていた沖縄第1中学校の男子生徒が全員泣き出した。理由を聞くと、”戦争に負けた” と言う。狐につままれた様な気持ちで地上に出てみると 「玉音放送」 のことを聞かされた。
戦況から考えると、やはりそうか と思ったが、何か体から力が抜けていくような感じだった。
5日前の空襲で母校も焼けてしまった。恩師も空襲で怪我をされた。戦争が終わって空爆は無くなったが、生活が急に変わる訳では無い。
食料品も衣類も ”配給・配給” でまともな生活は出来ない。私の家は八代の親戚が時々お米を持ってきてくれたので、他の家よりは良かったが、僅かに焼け残った衣類を持って漁村に行き、お魚と交換したり、牛や馬のえさの ”ふすま”を農家から貰って、トタン板を電線で繋いだ手製のパン焼き器でパンを焼いて食べる。また、石ころだらけの空き地を耕して野菜を作り、ヤギを飼ってその乳を搾って飲んだりしていた。
水道も無く、お隣の農家の井戸水を分けて貰って、バケツに水を入れて50メートルほど離れた家まで畦道をバランスをとりながら何回も運んだ。炊事用は勿論、焼け跡から持ってきた 五右衛門風呂 に入れるにはさすがに苦労した。また、水を貰っている農家の田植えの時は何日も手伝いに行った。当時、私は14歳だったが、今思うとよくやったと思う。
それでも私たちは良いほうで、東京から疎開して来られたお隣の一家は、親戚も無く、家の周りに生えている ”スベリヒユ” と言う雑草を採って食べておられた。
暫くすると、アメリカ軍が進駐してくるので女子供は避難するように と言われ、以前出入りしていた蜜柑農家(20キロ程離れた蜜柑山)に避難した。
戦争は終わったものの、普通の生活に戻るにはどれだけの年数がかかっただろう。
今、テレビで戦争の賛否について話し合っているが、戦争の悲惨さは体験した者でなければわからない。
2013年8月13日(月)
長男夫婦が帰省。お墓参りなど済まし、夜には熊本のホテルに帰った。いつもながら嫁のA美さんの明るさ、優しさに感謝。
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