2013年9月29日(日)
”漢詩を読む” の勉強を4月から続けてきたが、昨夜、最終回を終わった。 半年間とうとう効率的な勉強法を見出すことは出来なかったが、漢詩の醍醐味は少しわかったように思える。
作家のことを調べたことによって、他の本やTVでその名前が出た時など親近感を持ったり、かつて中国を旅した時の地名があったりすると、そのときの情景を思い浮かべ、思い出に耽ることがある。今後も漢詩を身近に感じることが出来ると思う。 無駄ではなかった。
後期はまた違った分野に挑戦してみよう。
2013年9月29日日曜日
2013年9月27日金曜日
2013年9月26日木曜日
戦争の記憶
2013年9月26日(木)
1941年12月8日未明、真珠湾の奇襲によって”太平洋戦争”が始まった。私は初等科5年生だった。
真珠湾攻撃で思い出すのは、当時歌われていた歌の歌詞の一部だ。全部は憶えていないが、 「命ささげし九柱の ああ忠魂の桜花」 という部分だ。今思えば、9人の神風特攻隊がアメリカの艦船に突入した様子がリアルに歌詞に残されている。
命を賭した若者は、どんな心境だったのか? 胸が痛む。
其の後、国民の生活はますます窮屈になり、お風呂を沸かす燃料も手に入り難く、裏の親戚の家と1日おきに沸かすようになった。つまり毎日交代でお風呂を沸かし、二家族で利用していた。
ある夜、裏の家で入浴し、自宅に帰る途中、「警戒警報」 発令され、ラジオから ”日本の東方海上に敵の爆撃機が確認された” というものだった。私は膝がガクガク震えていた。
1941年12月8日未明、真珠湾の奇襲によって”太平洋戦争”が始まった。私は初等科5年生だった。
真珠湾攻撃で思い出すのは、当時歌われていた歌の歌詞の一部だ。全部は憶えていないが、 「命ささげし九柱の ああ忠魂の桜花」 という部分だ。今思えば、9人の神風特攻隊がアメリカの艦船に突入した様子がリアルに歌詞に残されている。
命を賭した若者は、どんな心境だったのか? 胸が痛む。
其の後、国民の生活はますます窮屈になり、お風呂を沸かす燃料も手に入り難く、裏の親戚の家と1日おきに沸かすようになった。つまり毎日交代でお風呂を沸かし、二家族で利用していた。
ある夜、裏の家で入浴し、自宅に帰る途中、「警戒警報」 発令され、ラジオから ”日本の東方海上に敵の爆撃機が確認された” というものだった。私は膝がガクガク震えていた。
2013年9月25日水曜日
戦争の記憶
2013年9月25日(水)
学徒動員=1938年から文部省は中等学校以上の学校に対して集団的勤労作業の実施を指令、41年には学校報国隊を組織して勤労動員が行なわれた。
1943年には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、以後本格的に学徒動員が実施された。44年にはさらに強化され、原則として「通年動員」の態勢となった。
同年8月には「学徒勤労令」が公布された。45年の春には国民学校初等科以外の授業は原則として停止。全学徒は決戦体制に総動員された。(ブリタニカ)
43年には女学校の4,5年生は動員で毎日軍需工場に働きに行き、私たち1~3年生は、徴兵により男手が少なくなった農家の手伝いに行ったり、学校農園の作業、幼年学校の生徒が立田山の開墾で伐採した樹の根を掘り起こしたりした。後半は「警戒警報」の度に山の中に逃げながらの作業だった。
学徒動員=1938年から文部省は中等学校以上の学校に対して集団的勤労作業の実施を指令、41年には学校報国隊を組織して勤労動員が行なわれた。
1943年には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、以後本格的に学徒動員が実施された。44年にはさらに強化され、原則として「通年動員」の態勢となった。
同年8月には「学徒勤労令」が公布された。45年の春には国民学校初等科以外の授業は原則として停止。全学徒は決戦体制に総動員された。(ブリタニカ)
43年には女学校の4,5年生は動員で毎日軍需工場に働きに行き、私たち1~3年生は、徴兵により男手が少なくなった農家の手伝いに行ったり、学校農園の作業、幼年学校の生徒が立田山の開墾で伐採した樹の根を掘り起こしたりした。後半は「警戒警報」の度に山の中に逃げながらの作業だった。
2013年9月23日月曜日
2013年9月17日火曜日
2013年9月14日土曜日
2013年9月11日水曜日
2013年9月9日月曜日
83歳の誕生日&戦争の記憶
今日は83歳の誕生日。例年通り、長女の小学校時代のピアノの先生、河〇さんから「おめでとう」の電話をいただいた。また、Sさんからも例年通りお赤飯を頂いた。感謝!感謝!
日中戦争が始まってから次第に日用品などが品不足になり、武器や弾薬にするため、鉄製品や貴金属などを供出しなければならなくなった。
戦争の正当性を刷り込まれていたため、"お国の為” と皆率先して供出したものだ。
日中戦争が始まってから次第に日用品などが品不足になり、武器や弾薬にするため、鉄製品や貴金属などを供出しなければならなくなった。
戦争の正当性を刷り込まれていたため、"お国の為” と皆率先して供出したものだ。
2013年9月8日日曜日
オリンピック東京開催決定&戦争の記憶
今朝オリンピックの東京開催が決定した。56年ぶりと在って大変な盛り上がりだった。だが、一方、被災地の仮設の人々は、「オリンピックの大騒ぎは同じ国でありながら私たちの住んでいる処とは違う国の事のように感じられる」と話して居られた。
被災地を一番に考えるべきではないだろうか。オリンピックのもたらす効果はまだまだ先の事。被災者の生活は一刻も猶予できないのではないか。
戦争の記憶。1937年7月7日夜、(私は小学1年生だった)、中国、北京南西の盧溝橋付近で、演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃をされた事を契機に、日本軍と翼察政権(政務委員会)第29軍衝突に発展した。(日中戦争の発端となった。)
最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。当初、不拡大方針を声明していたにもかかわらず、内閣は内地3個師団の動員を決定、軍部内でも拡大派と不拡大派が対立するなど矛盾をはらみつつ戦線は拡大し、7月28日、北京、天津の総攻撃をもって全面戦争に突入した。
中国側ではこれを契機に抗日の機運が高まった。
其の後、召集令状(赤紙)を受け取る人が多くなり、婦人会は白いエプロンに ”大日本国防婦人会” と書かれた襷を斜めにかけ、私たちも皆、日の丸の小旗を持って出征兵士を見送る日々が続いた。
被災地を一番に考えるべきではないだろうか。オリンピックのもたらす効果はまだまだ先の事。被災者の生活は一刻も猶予できないのではないか。
戦争の記憶。1937年7月7日夜、(私は小学1年生だった)、中国、北京南西の盧溝橋付近で、演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃をされた事を契機に、日本軍と翼察政権(政務委員会)第29軍衝突に発展した。(日中戦争の発端となった。)
最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。当初、不拡大方針を声明していたにもかかわらず、内閣は内地3個師団の動員を決定、軍部内でも拡大派と不拡大派が対立するなど矛盾をはらみつつ戦線は拡大し、7月28日、北京、天津の総攻撃をもって全面戦争に突入した。
中国側ではこれを契機に抗日の機運が高まった。
其の後、召集令状(赤紙)を受け取る人が多くなり、婦人会は白いエプロンに ”大日本国防婦人会” と書かれた襷を斜めにかけ、私たちも皆、日の丸の小旗を持って出征兵士を見送る日々が続いた。
2013年9月7日土曜日
人生の最終ステージ&戦争の記録
2013年9月17日(土)
岡〇文〇さんが私の誕生祝を届けて下さった。 病後にもかかわらず例年通り祝っていただいて恐縮。何時もならお食事会をするのだが、病院からの食事規制が厳しいらしく、食事会は出来ないとのこと。早く何時もの元気を取り戻して欲しい。
2013年9月16日(金)
今日は市民病院の通院日。待ち時間にTさんから声をかけられた。前々回の通院日にお話したことが子供さんのお役に立ったとのこと。私の経験談がお役に立って嬉しい。
人生の最終ステージを生きている私にとって、少しでも誰かのお役に立てることがある。こんな素晴らしいことある。通しえられた。長い人生で人々に支えられたこと、教えられたことは数え切れない。残された時間を少しでもお返しが出来るような日々に出来る様努力しよう。
岡〇文〇さんが私の誕生祝を届けて下さった。 病後にもかかわらず例年通り祝っていただいて恐縮。何時もならお食事会をするのだが、病院からの食事規制が厳しいらしく、食事会は出来ないとのこと。早く何時もの元気を取り戻して欲しい。
2013年9月16日(金)
今日は市民病院の通院日。待ち時間にTさんから声をかけられた。前々回の通院日にお話したことが子供さんのお役に立ったとのこと。私の経験談がお役に立って嬉しい。
人生の最終ステージを生きている私にとって、少しでも誰かのお役に立てることがある。こんな素晴らしいことある。通しえられた。長い人生で人々に支えられたこと、教えられたことは数え切れない。残された時間を少しでもお返しが出来るような日々に出来る様努力しよう。
2013年9月3日火曜日
私の人生の中での戦争の始まり
2013年9月3日(水)
私の誕生日は1930年9月9日。 翌1931年9月18日、奉天(今の瀋陽)の北方 柳条湖の鉄道爆破事件から日本の中国東北侵略戦争が始まった。 私はまだ1歳。当時の事は知る由もない。
今から20年近く前、中国旅行で柳条湖事件の現場を訪れる機会があった。そこには資料館があり、当時の生々しい写真が多数展示してあった。
私の誕生日は1930年9月9日。 翌1931年9月18日、奉天(今の瀋陽)の北方 柳条湖の鉄道爆破事件から日本の中国東北侵略戦争が始まった。 私はまだ1歳。当時の事は知る由もない。
今から20年近く前、中国旅行で柳条湖事件の現場を訪れる機会があった。そこには資料館があり、当時の生々しい写真が多数展示してあった。
2013年9月1日日曜日
沖縄で見たもの
2013年9月1日(日)
1978年1月、「日〇〇全国大会」 が沖縄で開催された。私はPTAの熊本県代表として参加した。大会終了後、八代市郡の参加者は1日だけ残って沖縄を見学することになった。
翌日、南部の戦跡を廻ることになり、「ひめゆり隊」 の壕や、住民が避難していた 「ガマ」 など、数ヶ所を廻った後、「摩文仁の丘」 へ・・・
そこには、各都道府県の慰霊碑が建てられ、戦没者の氏名が刻まれていた。まだ氏名を刻むスペースが沢山残されていて、これから刻まれる方々が多いことが推測された。
丘の最南端には 「健児の塔」 が有り、海を見下ろしている。その断崖を少し降りると、第32軍司令部の終焉の地となった横穴壕の前に出る。中に入って見ようと思ったが、「中の側壁には兵士の血や肉片がまだ残っている」というガイドさんの言葉に思わず身を引いてしまい、中に入ることは出来なかった。
今は、「平和祈念公園」 に「平和の礎」が出来て、当時とは比べものにならないほど多くの方々が刻名されているが、当時はまだ淋しいものだった。
私たちが宿泊した前夜も”ホテルの下の道路で少女が暴行を受け殺された”との話を聞き、ホテルの近くの ”嘉手納基地” には、夜になると地下道を通って弾薬その他が運び込まれているとのことだった。
私たちが行ったのは沖縄が返還されて間もない頃だった。集会の帰り途、通りがかりの家の子供たちが 「日本の先生、さようなら」 と言っていたのを聞き、凄いショックを受けたことは忘れられない。
ホテルの朝食の時も、米軍機の轟音のため、前の席の人の話が聞こえず
現地の方の苦しみがホンの少しだがわかるような気がした。
1978年1月、「日〇〇全国大会」 が沖縄で開催された。私はPTAの熊本県代表として参加した。大会終了後、八代市郡の参加者は1日だけ残って沖縄を見学することになった。
翌日、南部の戦跡を廻ることになり、「ひめゆり隊」 の壕や、住民が避難していた 「ガマ」 など、数ヶ所を廻った後、「摩文仁の丘」 へ・・・
そこには、各都道府県の慰霊碑が建てられ、戦没者の氏名が刻まれていた。まだ氏名を刻むスペースが沢山残されていて、これから刻まれる方々が多いことが推測された。
丘の最南端には 「健児の塔」 が有り、海を見下ろしている。その断崖を少し降りると、第32軍司令部の終焉の地となった横穴壕の前に出る。中に入って見ようと思ったが、「中の側壁には兵士の血や肉片がまだ残っている」というガイドさんの言葉に思わず身を引いてしまい、中に入ることは出来なかった。
今は、「平和祈念公園」 に「平和の礎」が出来て、当時とは比べものにならないほど多くの方々が刻名されているが、当時はまだ淋しいものだった。
私たちが宿泊した前夜も”ホテルの下の道路で少女が暴行を受け殺された”との話を聞き、ホテルの近くの ”嘉手納基地” には、夜になると地下道を通って弾薬その他が運び込まれているとのことだった。
私たちが行ったのは沖縄が返還されて間もない頃だった。集会の帰り途、通りがかりの家の子供たちが 「日本の先生、さようなら」 と言っていたのを聞き、凄いショックを受けたことは忘れられない。
ホテルの朝食の時も、米軍機の轟音のため、前の席の人の話が聞こえず
現地の方の苦しみがホンの少しだがわかるような気がした。
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